1ビットで伝わる気持ち

女子高生がメールで使う文字の話を聞いた。いろいろな記号とか、アルファベットとかを組み合わせて日本語の文字のように見せかける(例えば 「t=」で「た」とか?)というワザのようで、なんだか前にも聞いたことがあるような、ないような。そういえばずいぶん昔のポケベル黎明期には、数字しか通知できないI/Fでメッセージを伝えるワザ(「428」で「渋谷」とか?)もあったなあ。いろいろ新たなプロトコルを開発して、共有することで仲間意識を強めるという傾向は、受け継がれているようだ。

「↑↑↑」とか「↓↓↓」というメッセージもあるらしい。
前者が「超ハッピー♪」で、後者が「超へこんでる」という、自分の気分を伝えるためのシンボルになっている。(なお「超xx」というのは私の考える若者語であって、現実には今の若者はこう言わないのかもしれないが私には知るよしもない)
ちょっと不思議な気持ちになった。「↑↑↑」や「↓↓↓」といったメールをわざわざ送る気持ちがわからない。
もちろん、楽しい時や辛い時にその気持ちを誰かに聞いてほしいと思うのは自然なことだし、聞いてもらうことで適度にガス抜きするのは大切なことだと分かってる。私もそういうガス抜きの話し役になることも、聞き役になることもある。Webで日記を公開しているのも、もとはといえば話す相手のない時に書くことで救われる、その感覚が必要だったからのことなんだ。
でもそれは私にとっては、できれば相手の顔を見て話したい種類のことである。顔が見られないときは電話だったり、メールやWeb日記のときは文章だったりするが、どういう経緯があって自分がどういう気持ちなのか、ということをできるだけ伝えたいし、(相手の迷惑にならない程度の粒度で)理解して欲しいと思う。だから、「↑↑↑」や「↓↓↓」で自分の気持ちを相手に伝えて満足できるという気持ちがよく分からない。
「↑↑↑」か「↓↓↓」というだけだったら、たったの1ビットで伝わってしまうではないか。人間の気持ちまで記号化されているようで、なんだかやるせないのだ。